誕生50周年「イパネマの娘」がこれほど長く愛される理由とは?

ogidou

2012年07月05日 17:45


これまでカバーされ続けてきたブラジルの歌が今年で50周年を迎えます。何がこれほど長く続く秘密なのでしょうか?1962年以前、もしジョンQ・ノバディが南アメリカについて何か考えたならば、おそらくバナナ共和国、ナチス亡命者、そしてカルメン・ミランダの他にはあまり知らなかったでしょう。50年前の夏、長身で日焼けした、若く愛すべき女神が誕生したことでそれが変わったのです。

彼女は「The Girl From Ipanema(イパネマの娘)」なのです。





一握りの世界的ヒット曲のように(ジャマイカの「Day-O」、オーストラリアの「Down Under」)、「The Girl From Ipanema」は、ぼぼ全ての国の音楽と精神を表している。この歌は、大地はブラジルであり、スタイルはボサノバ、そして独特なエキゾチックさがあり、つかみどころのなく、まるで誘惑的なトロピカルカクテルのようです。また、歌詞は「かっこよく、そして優しく揺れるサンバのよう」なのです。

当時、ボサノバはアメリカではよく知られておらず、スタン・ゲッツとチャーリー・バードによる1962年のアルバム「Jazz Samba」からグラミー賞を受賞した「Desafinado」などがありました。しかし、「The Girl From Ipanema」(オリジナルのポルトガル語では「Garota de Ipanema」)は何か全く違うものだった。ビートルズのように心地よく聞けるという驚きだけでなく、それは全ての文化を凝縮させたものだったのです。

「普通の人たちには、‘The Girl From Ipanema’は‘いい歌’といった様に聞こえる。」と、ブラジル系アメリカ人ギタリストで音楽ディレクターのマニー・モレイラは話し、「でも、プロの耳には、それは完ぺきなんだ。」と続けた。



誕生から50年、「The Girl From Ipanema」はその名声から逃れることができなくなった。パフォーミング・ソングライターマガジンによれば、それはこれまでで2番目に多くレコーディングされたポップソングであり、「Yesterday」にのみ順位を譲ったという。また、サミー・デイビス・ジュニアはそれを「I Dream of Jeannie」で歌いました。(イェール・ウィフェンプーフスのレパートリの一部分)

そして、それは典型的なミューザック(商店・レストランなどで流されるバックグラウンドミュージック)となった。小さな商店や安っぽいカクテルラウンジに曲が流れ、遅かれ早かれ澄んだ旋律があなたを優しく包むでしょう。1980年の映画「The Blues Brothers」のクライマックスでは、ジョン・ベルーシとダン・エイクロイドがゆっくりとシカゴシティホールのエレベーターに乗った後、何百人もの銃を持った警察、州警察、そして他の騒々しい権力者たちが混乱する中、パイプ楽器の音色に心が静まるシーンが流れる。

これは、確かに芸術だ。しかし、なぜだろう?

一つの理由は、タイトルの少女です。彼女は官能的な美を体現しており、また振り向かせることができなかった。「でも毎日、彼女が海辺を歩く時/彼女は僕ではなくまっすぐ前を向いていた。」

「それは世界で一番古い物語だ」と英語の歌詞を書いたノーマン・ギンベルは言った。「美しい少女が通りかかり、男がマンホールから飛び出し、木から落ち、そして彼らは口笛を吹き彼女の気を引こうと夢中になるけれど、彼女はただそばを通り過ぎていく。これはどこも同じなのです。」

作曲家のアントニオ・カルロス・ジョビンと詩人のヴィニシウス・ジ・モライスは50年前にこのように語っている。ミュージカル「Blimp」のアイデアが浮かばず、彼らはリオデジャネイロの隣に位置するベロソのイパネアにある海辺のカフェでアイデアを得た。そこで彼らは身長が170cmくらいで、黒髪、そして緑色の眼をした少女のエロイーザ・エネイダ・メネーゼス・パエズ・ピントのことを思い出した。彼らは、彼女がよく海辺を歩いていたり、バーで彼女の母にタバコを買っている姿を見ていた。そして、彼らはその美を表したのです。


Astrud Gilberto and Stan Getz: THE GIRL FROM IPANEMA - 1964

元々、ブラジル出身の人気歌手のペリー・リベイロによって歌われた(2月に亡くなった)、「Garota de Ipanema」は祖国の隅々まで受け入れられました。それから、アメリカの音楽出版社のロウ・レビーがギンベルに英語カバーを作らないかと持ちかけました。ジョビンがピアノ、スタン・ゲッツがサックス、ジョアン・ギルベルトがギター兼ポルトガル語のボーカル、そしてギルベルトの妻アストラッドが英語のボーカルを担当し、アメリカ版はアルバム「ゲッツ/ギルベルト」として1963年3月に発表されたのです。

ギルベルトの柔らかなポルトガル語が、歌のトーンを整える一方、彼の妻の英語は人々を引き付けるものでしたが、そうするべきではなかった。アストラッドは話すことはできても、彼女の歌い方は明らかに洗練されていなかったのだ。「私はこれまでレコーディング前に、一度もプロみたいに歌ったことはない」と、彼女は自身のウェブサイトで言っており、あなたはそれを聞くことができる。彼女はよく間違った音を強調し、その音の通りに発音しているようだった。彼女の最初の言葉「tall」は、「doll」と伝わり、ギンベル氏の歌詞とは対照的に、「彼女は彼ではなくまっすぐ前を見ていた」と歌う。でも、それは「私」であるべきだったのです。

「私が後でそれを知った時、髪をかきむしった」「本当に怒っていた」と、ギンベルは話す。

しかし、彼女の心もとない歌い方とゲッツの息遣いが聞こえるサックス、そしてジョビンの柔らかな音色のピアノが一つになった時、作品はまるで彼女自身であるかのように、そして魅力的な作品となった。「The Girl From Ipanema」は1965年のグラミー賞年間最優秀レコード大賞を受賞し、また同年にはエロイーザを発表し、名声を不動のものとした。今日、66歳でなお若々しいヘロ・ピニェイロは地元の人気者で、喜んでインタビューに応じたり写真のためにポーズを決めたりしている。気さくな一面とは別に、彼女は実に上品だ。

そして、それはおそらくなぜその歌が受け継がれてきたかに対する究極の理由なのです。どこか遠く、不思議な美、そして叶えられぬ夢、それらがあなたや私にとって現実となったのです。



「イパネマの娘」50周年記念コンピCD「イパネマの娘たち」

The Elusive Girl From Ipanema
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